西西河

主题:【原创】义勇军的战绩,使得击毙日军将领名单中少了一个少将 -- 春秋的老胡

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家园 感谢老胡,找到了这么个网页

http://homepage3.nifty.com/hongo/newpage3.htm

其中有这么一条

11月30日、(新聞発表第九二〇号 十二月六日 十二月六日陸軍省着電 )<<戦死傷者一、十一月丗日七星河(寳清西南方約二十粁附近の戦闘に於て松江部隊歩兵軍曹西村末雄戦死歩兵中佐小濱氏善重傷す 後略>>WEB[1-8]。

全文是这样

補足(一)満州事変の吉林省東部で東北抗日自衛軍と戦って負傷した小浜中佐

桜会メンバー[8]であり、近歩2連隊付で府立5中(現小石川高校)の配属将校だった小浜氏善少佐は昭和6年(1931)8月に中佐に進級します。府立5中服務のままの進級のようです。同年12月歩63連隊(松江)付に(人事)移動しました。[2]。歩63連隊の上級部隊は第10師団です。第10師団は昭和7年(1932)4月に満州事変に出動します。歩63連隊と小浜中佐も、当然、満州に出征ということになります。

このころの満州事変の吉林省東部の状況を少し書いてみたいと思います。

昭和7年(1932)2月5日、ハルビン防衛の東北抗日自衛軍(総司令李杜)は三姓(依蘭)方面に撤退します。WEB[1-1]。\

吉林省東部は中東(東清)鉄道の存在によるソ連への配慮もあり、日本軍の侵攻が後回しになっています。満州事変勃発後、日本軍の黒竜江省、吉林省東部の侵攻の間に急速に反日ナショナリズムが形成されたのでしょうか、吉林省東部の地方軍閥の多くは反吉林軍です。反吉林軍とは、日本側から敵を東北抗日自衛軍などと呼ぶわけにいかなかったようで、ハルピン防衛戦ころより、吉林省東部の張学良系の地方軍閥で日本側に帰順したのを吉林軍、反日抗戦側を反吉林軍と呼んだようです。

2月9日( 二月十日新聞発表第三九七号 二月十日 奉天二月九日発 陸軍省着電一、)<<諸情報を総合するに反吉林軍の主力(第十四第二十二第二十五暫編第一の各旅)は方正、依蘭附近に一部(第二十四第二十八の各旅)は呼蘭附近に退却した模様てある。>>WEB[1-2]。

このハルピン防衛戦の東北抗日自衛軍(総司令李杜)を構成していたと思われる各旅とは以下のとおりです。

第十四は不明。

第二十二は独立第二十二旅(兵力 六千)、(旅長) 蘇徳里、 (原駐地)雙城堡、察門。

第二十五は独立第二十五旅(兵力 五千)、(旅長)張作舟、(原駐地)五常、楡樹。

第二十四は独立二十四旅(兵力 五千)、(旅長)李杜、(原駐地)依蘭、富錦、虎林。\r

第二十八は独立二十八旅(兵力 五千)、(旅長)丁超、(原駐地)ハルピン、阿城。[23]。

暫編第一(旅?)は(兵力 二千)、(指揮官)馮占海とWEB[1-7]にあります。とするならば[23]にリストアップされている歩兵六百二十八団(連隊)、(団)長、馮占海、(兵力 二千)、(原駐地)賓県、のことではないかと思われます。連隊(団)規模なので暫編第一(旅?)とされたものかと思われます。

当初、ハルピンを攻めた日本軍は長谷部少将の歩3旅団も含む第2師団が主力でした。

5月11日、通河、方正方面の状況 (新聞発表第五七五号 五月十二日 奉天五月十一日陸軍省着電一.)<<過日通河に在る我が部隊を夜襲し来り多大の損害を受け撃退せれらたる黒省軍反徒中約千名は三站(通河東方約十五粁)に第九団(団長呉凌漢は通河夜襲の際戦死)は沙河子(通河東北方約十五粁)に在って通化(河)奪回を企図している丁超、李杜は之に策応する為其前線部隊に対し方正方面への進撃を命している>>WEB[1―3]。

反吉林軍が連隊(団)規模以上の兵力で反撃したわけです。李杜、丁超などは、ハルピンの東、松花江沿いの日本軍に占領されていた通河の奪還を企図したようです。日本軍の拠点のひとつだったのでしょう。リットン調査団の満州入りということも影響したのでしょうが、戦車、飛行機など持たず、日本軍には装備補給で劣る反吉林軍の大規模な反撃です。撃退されましたが、反吉林軍の反日ナショナリズムの高揚による士気の高さが窺われる反撃です。このとき、李杜、丁超などは通河のより東、松花江沿いの三姓(依蘭)付近に居たと思われます。李杜は依蘭鎮守使(依蘭付近の数県を併せた地域の知事のようなもの、警備司令として軍権も持っており、地方軍閥と言える)でした。この付近が本拠地です。海抜0メートル地帯で、沼沢地(谷地)が多く、谷地に日本軍は近づけなかったと思われます。地の利は反吉林軍にあったと思います。

このころ、日本軍の吉林省東部の匪賊(反吉林軍)掃討部隊は第2師団から、歩63連隊付の小浜中佐も含む第10師団などに交替したようです。WEB[1-4]。第2師団はチチハルより北の馬占山軍にあたっていたと思われます。

5月13日、<<三姓(依蘭)附近の敵は十三日来松花江河盂「カボクシ」及三姓東南八〇粁及勃利方面に退却を開始したるものの如く>>WEB[1-5]。

5月17日、<<第十師団は十七日敵の抵抗を受くることなく三姓(依蘭)に入れり丁超は「カボクシ」(松花江河盂)李杜は勃利方面に退却したり>>WEB[1-5]。

反吉林軍は11日の通河反撃の報復攻撃を受けたのでしょう。李杜は松花江流域を離れ、三姓(依蘭)から、南の勃利方面に退却したようです。丁超が退却した「カボクシ」(松花江河盂)の「カボクシ」は私の持っている地図([24])では確認できませんが、河盂というのは『漢語大詞典』では軍語で流域のことを指すようです。丁超は三姓(依蘭)より松花江流域沿いを、より東に退却したようです。日本軍の三姓(依蘭)侵攻で李杜は南の勃利方面、丁超は松花江流域の富錦へと、それぞれ別れて退却せざるを得なかったのでしょう。

5月21日、我が部隊富錦占拠 (新聞発表第五九〇号 五月二十四日 奉天五月二十三日発陸軍省着電)<<松花江上を進航せる我が一部隊は二十一日午後一時富錦に到着した 李杜反及超等(ママ)の反吉林軍主力は宝清(富錦東南方約六十粁)に退却し其一部は同江下航し同方面の退却部隊を収容している>>WEB[1-6]。

富錦は三姓(依蘭)のより東(下流)にある松花江流域の都市です。5月13日に三姓(依蘭)より松花江流域沿いに退却した丁超がいたと思われます。

五月下旬より六月中旬末~六月下旬より七月上旬末迄の状況(新聞発表(綜合)第六号七月十九日)<< 反吉林軍討伐状況 一、五月下旬より六月中旬末迄の状況 1、我が討伐隊の為甚大なる打撃を受けた反吉林軍は其中心勢力たる歩兵第二十四旅(長李杜)歩兵第二十八旅(長丁超)等を以て遠く東北方富錦、密山方面に退却したが 中略 二、六月下旬より七月上旬末迄の状況 中略 李杜軍は密山、綏芬付近に丁超軍は冨県、宝清付近に 後略>>WEB[1-7]。

このころ、李杜は勃利のより東、密山付近まで退却していたようです。ソ連との国境の虎林までわずかしかありません。丁超は富錦(松花江流域)を離れ、少し南の富県と宝清付近にまで退却しています。宝清からも虎林までは僅かです。

11月30日、(新聞発表第九二〇号 十二月六日 十二月六日陸軍省着電 )<<戦死傷者一、十一月丗日七星河(寳清西南方約二十粁附近の戦闘に於て松江部隊歩兵軍曹西村末雄戦死歩兵中佐小濱氏善重傷す 後略>>WEB[1-8]。

歩兵中佐小浜氏善は重傷を負います。場所は七星河(寳清西南方約二十粁)附近ですから、小浜中佐に重傷を負わせたのは丁超軍だと思われます。松江部隊とは歩63連隊のことです。

昭和8年(1933)1月6日午後8時、(陸軍省公表第八号 一月十日 東部吉林省方面に於ける兵匪討伐の状況一)<<二、人見支隊は積雪を冐して六日早朝、小城子(穆稜東北方)出発穆稜、密山方面の兵匪撃滅の目的で前進し同日夕密山城(穆稜東北方)に拠れる約五百の敵を攻撃し午後八時同城を占拠した。李杜及其部下約二千は虎林(密山東北方)に退却した様だ此戦斗で兵匪に与へた損害は約三百名である>>WEB[1-8]。

李杜は国境の虎林に退却したようです。

人見支隊の人見隊長とは北海道帝大服務だった人見順士歩兵大佐なのかもしれません。だとすると、昭和7年(1932)に入ってから、満州事変に動員された第8、10、14師団いずれかの連隊長の1人だったと思われます。

1月6日夜、(陸発表情報(甲)第六号 陸軍省新聞班 一月十一日 )<<満洲国治回復に就て ◇吉林省東境の討伐で我が部隊は六日夜兵匪の根拠地密山次で虎林を占拠したので反将李杜は蘇領に遁入丁超は帰順を申し込んで来た。◇これで熱河省を除き、全満洲に亘り今や集団的反満抗日軍は一掃せられ僅かに馬賊及其類似の匪賊が我が威力を避けて僻陬の各地に蟠居し蠢動している程度となつた。>>WEB[1-9]。

WEB[1-8]とWEB[1-9]を総合すると、日本軍は1月6日午後八時に密山を、同日夜に虎林を占領したことになります。密山ー虎林間は約150kmあります。虎林を攻めた部隊は人見支隊ではない別部隊なのでしょう。あるいは、WEB[1-8]とWEB[1-9]のどちらかの日付が間違っているのかもしれません。

いずれにしても、虎林を占領された李杜は2千の部下とともに陸路を虎頭まで退却し、そこからソ連領イマンに入り武装解除されました。丁超は宝清方面から虎頭までとどかず、約7千の部下とともに日本軍に投降しました。

反吉林軍の組織的抵抗はこの時点で終わったようです。馬占山軍はすでに前年12月に満州里より入ソしています。

ハルピン防衛戦に破れた反吉林軍が依蘭に拠り、通河の日本軍に反撃し、その報復攻撃で日本軍に依蘭を占領されたところまでが、この吉林省東部の戦いの山場だったようです。依蘭放棄後の反吉林軍はほぼ退却戦に終始したようですが、7月に丁超が富錦から宝清方面、李杜が密山にいたころから、11月30日の小浜中佐の重傷まで日本軍の掃討戦はあまり進捗していません。高粱、谷地などの地の利を生かした反吉林軍が退却しながら執拗な反撃を繰り返していたためと思われます。11月末の小浜中佐が負傷したのは谷地が凍りつき、高粱が収穫されて地の利を利用しにくくなった反吉林軍への冬季の日本軍攻撃の前哨戦段階に於ける負傷ではなかったかと思われます。反吉林軍の行動が鈍くなり食料弾薬の補給もままならなくなった冬季を待っての日本軍の密山、虎林への総攻撃なのでしょう。

退却しながらの反吉林軍の執拗な日本軍への反撃に吉林省東部の反日ナショナリズム高揚の一端を見ることが出来るのではないでしょうか。

1937(昭和12)年現在の、李杜の経歴は、『現代中華民国 満州国 人名鑑』(昭和12年度版)に見ることが出来ます。引用しておきたいと思います。<<李杜(植初)Li Tu(Chih-chu) 奉天省義縣人。一八八〇年生。東三省講武堂(註1)卒業。早くより張作相に従いて吉林に在り。吉長鎮守使署参謀長、吉林軍械支廠副廠長、第八旅の団長、吉林全省警備隊統領兼長春戒厳司令、第十五師歩兵第十旅長等を経て一九二六年任依蘭鎮守使兼歩兵第九旅(後に独立第24旅と改称)長。1929年露支紛争に際し松花江沿岸軍隊総指揮たり。一九三一年満州事変後丁超と合作して煕洽(註2)に反抗して東北自衛軍を組織して其総司令に任ず。後敗戦して露領に遁入す。(原文は旧漢字。WEB[1―11])>>とあります。

点看全图

外链图片需谨慎,可能会被源头改

写真③李杜 吉林抗日連軍(東北抗日自衛軍)総司令[30]

なお、ソ連領に逃れた李杜はソ連領内で馬占山らと合流しヨーロッパ経由で上海に帰ります。そのあと、上海にいた李杜は西安事件で張学良に中共党との公式チャネルを開かせるという、歴史的に重要な役目を果たすことになります。その後の李杜については当HPの西安事件と中国空軍(航空)事情№3ボーイング247の航跡をご覧になってください。

註1 講武堂:元来は旧式軍隊の将校を再教育する講習所のような機関であり、天津には1906年に設置されています。ただし他の地方の場合は日本の陸士のごとき機能を兼ね備えたところもあります。WEB[16]。

註2 煕洽 もともとは張作相の下にあった奉天軍閥の一員。満州事変勃発後、いち早く日本軍側につき、吉林軍と称しました。日本の陸士出身。

WEB[1-1]哈爾賓占拠の経過概要 (目録) 14画像の7画像目(各種情報資料上海事件ノ情報)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023740500

WEB[1-2] 反吉林軍の情況(各種情報資料上海並満洲事件ニ関スル新聞発表)1画像アジア歴史資料ーhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023744600

WEB[1-3]通化方正方面の状況(各種情報資料満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)1画像アジア歴史資料センター

http://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023778800

WEB[1-4]満洲方面の情況 五月上旬 (目録) 5画像(各種情報資料満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023779200

WEB[1-5] 第十師団三姓占領(各種情報資料満洲及支那事変ニ関スル新聞発表) 3画像アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023780300

WEB[1-6]我が部隊富錦占処(各種情報資料満洲及支那事変ニ関スル新聞発表)8画像アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm A03023781100

WEB[1-7] 反吉林軍討伐状況 (目録) 8画像 (各種情報資料陸軍省新聞発表) アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023821600

WEB[1-8] 東部吉林省方面に於ける兵匪討伐の状況 (目録) 2画像(各種情報資料陸軍省新聞発表)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmA03023856500

WEB[1-9]満洲国治安回復に就て (目録) 2画像 (各種情報資料陸軍省新聞発表)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm A03023857800

WEB[1―11] 第一部 中華民国/リ之部 (目録) 38画像の12画像目(現代中華民国満州帝国人名鑑 東亜同文会調査部)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htmB02130795400

WEB[16]紫金山房http://254.teacup.com/youtian/bbs

文献[2]『日本陸海軍の制度組織人事』日本近代史料研究会編 東京大学出版会 1981年。

文献[8]「桜会人名録」秦 郁彦 『軍ファシズム運動史』 河出書房新社1962年、233頁-240頁。

文献[23]『活機戦第1部』陸軍大佐佐藤庸也著 日本軍用図書株式会社 昭和18年。

文献[24]『中華人民共和国分省地図集』地図出版社 1974年。

文献[30]『中国抗日戦争図誌 日本語版 (上巻)』 楊克林曹紅 柏書房 1994年。

下面还有一篇

[QUOTE]補足(二)綏遠事件、内蒙古シラムレンで戦死した小浜予備役大佐

吉林省東部の松花江流域沿い(富錦)から退却し、宝清付近にいた反吉林軍(東北抗日自衛軍)の丁超軍との戦闘で昭和7年(1932)11月30日、歩63連隊(松江部隊)付小浜中佐は重傷を負います。場所は寳(宝)清西南方約二十粁附近です。WEB[1-8]。

谷地が凍りつき、高粱が収穫されて地の利を利用しにくくなった反吉林軍への冬季の日本軍攻撃の前哨戦段階に於ける負傷ではなかったかと思われます。これで、小浜中佐は功4級の金鵄勲章([6])をもらったのでしょう。

負傷した小浜中佐は、昭和8年(1933)3月、中佐のまま同じ第3師団の歩6連隊付に(人事)移動しています。[2]。歩6連隊も満州出動中ですが、留守(連)隊要員として負傷の治療も兼ね、このとき内地に帰還したのかもしれません。昭和9年(1934)4月、歩6連隊留守隊長になります。[2]。昭和11年(1936)3月、大佐(に進級)第3師団司令部付となります。[2]。大佐で師団司令部付というのは決まった仕事も、デスクすらもない配置のようで、予備役編入一歩手前、これ以上は進級しませんよ、ということなのでしょう。

昭和11年(1936)5月に第3師団は内地に帰還します。同年5月29日付けの(第3師団の)満洲帰還部隊の復帰完結の件という書類に小浜大佐は平時編成に改編された第3師団では定員外としてリストアップされています。WEB[1-10]。

同年8月、小浜大佐は予備役に転役となり、連隊長になれないで現役を去ります。[2]。

しかし、小浜大佐は予備役転役の時点で、まだ47~48歳です。陸軍大佐の現役定限年齢(定年)は55歳です。陸士(20期)の同期生などには、まだ現役続行中が多数いたのではないでしょうか。負傷が予備役転役の主たる要因だったとは想像できます。桜会メンバーだったこともいくらか影響があるのかも知れません。金鵄勲章をもっている小浜大佐にとってはいささか残念だったのではないでしょうか。

昭和11年(1936)11月~12月にかけて、関東軍は傀儡内蒙政権をもって、綏遠省(現内蒙古自治区)侵攻を企図します。いわゆる、綏遠事件(註1)です。

公式には綏遠事件に関東軍の正規軍は参加していませんが、予後備役の日本軍人と民間人が指導官として傀儡軍に参加して指揮をとっていました。そのトップが小浜予備役大佐のようです。小浜予備役大佐は数千の傀儡軍の事実上の総指揮官になったわけです。

しかし、傀儡軍は傅作義軍(山西モンロー主義から国民政府の北伐に協力した閻錫山の山西軍系)にまるで歯が立たず、その上、傀儡軍の寝返りにあって小浜予備役大佐は昭和11年(1936)12月、他の日本人指導官とともに包頭市の北、百日廟付近のシラムレンで戦死しました。小浜予備役大佐など日本人指導官の戦死直後、関東軍は1936(昭和11)年12月12日に西安事件が起きたことにより、綏遠省侵攻を断念しました。

註1 綏遠事件 <<1936(昭和11)年11~12月にかけて、関東軍の後押しで傀儡内蒙政権(蒙古軍政府)が版図拡大のために傅作義の支配する綏遠へと武力侵攻して撃退された事件。中国側の抗日意識の高揚を誘い、直後に起きた西安事件とともに、のちの日中開戦の遠因となった。WEB[15]。>>

WEB[1-8] 東部吉林省方面に於ける兵匪討伐の状況 (目録) 2画像(各種情報資料陸軍省新聞発表)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm A03023856500

WEB[1-10]満洲帰還部隊の復帰完結の件 (目録) 7画像の2画像目(昭和11.6.16~11.6.22 「満受大日記(普) 其4 2/2」)アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/f_1.htm C04012350200

WEB[15]『綏遠事

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