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主题:【原创】士兵证言:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 上 -- flyingcatgm

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附日文原文

附我自己边听边记的日文原文如下,供大家一起参考,个人听译错误难免,如有指正,多谢多谢:

 昭和12年に始まった日本と中国の全面戦争、日中戦争、この戦いに7年の長きにわたり、投入された部隊があります。島根県松江(まつえ)市で編成された歩兵第163連隊、部隊に課された任務は日本軍が占領した広大な地域の治安を維持したことでした。

 中国北部に広がる華北平原、兵士たちはここで活動する抗日勢力を掃討(そうとう)し、宣伝工作を行って住民に日本の支配を受け入れさせようとしていました。

 「大東亜の秩序を保つためだ。東亜だいねんとかという、そういう名目をやったんだ。だからもう乱れ、ゆだれているから、中国はもちろんね、国内、大東亜の秩序をたもるための聖戦やいわれたんだ。」

 兵士たちが担った占領政策、その前に立ちはだかったのが華北に勢力を広げていた中国共産党の軍隊、八路軍でした。八路軍の兵士は住民と同じ服装をして農村に入り込み、日本軍に執拗(しつよう)な攻撃を繰り返していました。

 「八路軍というのはね、神出鬼没、これで、着ているのは便衣(べんい)でしょう、追いかけると逃げるのよ。これで一般の住民と一緒にやっとうでしょう。八路軍のゲリラ戦法、これにはもう手子摺り(てごすり)ました。」 

 装備では勝るものの、巧妙な八路軍のゲリラ戦に翻弄された日本軍、誰が兵士で、誰が住民なのか、

 「敵と遭遇した場合、こちらは生きなきゃ勝たなきゃいかんな、そこ(戦場)に住民がおった場合は、おってもだな、それが敵か本当の住民かわからない場合がある。住民がおっても打つ場合があるわ。弾、敵のほうにおるわけだからね。」

 八路軍は地下に張りめぐされた通路を移動し、日本軍の不意を衝く攻撃を繰り返しました。苦戦を強いられた日本軍はやがてある兵器を使用するようになります。毒ガス兵器、赤筒(あかとう)です。そのガスは激しい吐き気を引き起こし、場合では死にいたることもあります。日本軍は八路軍がこもる地下道にたびたびこの兵器を使用しました。

 「私らもやった。やったけどのう、それは、その、この土の下ずっと通路になっているから、穴を掘って、それをやつら、穴からワーワーするもんだから、赤筒放り込むでしょう。赤筒はガスだからね。」

 「あのときに、戦争のもというたら、恐ろしさでもないけども、えげつないだなと思いましたね。」

 どこに敵が潜むかわからない中で、激しさを増していたゲリラとの戦い、シリーズ「証言記録、兵士たちの戦争」、島根歩兵第163連隊の元将兵の証言から中国大陸での知られざるゲリラ掃討戦の実態に迫ります。

 日中戦闘が始まって一年後の昭和13年6月、松江市内には召集を受けた人々が次々と集まっていました。中国で獲得した占領地の治安を維持するために編成された歩兵第163連隊、3300名の将兵です。広大な占領地を警備するには大量の兵員が必要でした。163連隊には兵士としては高齢な中高年の男性や徴兵検査で体力に劣ると判断された人たちも招集されていました。

 (元歩兵 山本実さん(95))「お寺の坊さんから、大工(だいく)やら、やくざみたいな男やらも、いろんな雑多なものが兵営にぶち込まれ、何にもごちゃ混ぜみたいな状態です。」

 (元歩兵 児玉積さん(97))「みんな、それぞれ職業を持っておりますし、農家の人もいましたから、みんなでワヤワヤ行って、「しようがないのう」といって」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫(かつうらよしお))「兵隊にいけるのも、あるいは戦闘で死ぬかもわからんけれども、国のために尽くせるのは文句はないの。そういう時代だったと思います、だから、みんな、やっぱり一生懸命でしたね。」

 昭和12年7月、蒋介石率いる中国国民政府を相手に始まった日中戦争、戦力に勝る日本軍は開戦当初から連戦連勝を重ねます、しかし、急速に拡大する占領地が日本軍に大きな問題をもたらしました。兵力が足りないため、都市部と輸送路だけを維持するいわゆる点と線の支配しかできなかったのです。163連隊が投入された華北平原は日本列島とほぼ同じ面積です。部隊は北京南部の穀倉地帯を走る鉄道と周辺集落の警備を担いました。召集されるまで、京都の油然問屋に勤めていた門脇(かどわき)志郎さん、中隊200人で東京23区に相当する広さを担当するよう命じられました。

 (元歩兵 門脇志郎さん(94))「とてもじゃないが、広いわ。感想というのも、ただそれだけです。さあ、ひろい、とっと、連隊がちょっとちぐらい行ったって、とてもじゃないか、広いですよ。」

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「(住民は)心安かったですよ。「大人、大人」と寄ってきました。向こうもわれわれの機嫌を取らんと、えらい目にあうでしょう。」

 163連隊の警備地域に勢力を広げていたのが毛沢東を率いる中国共産党でした。当時、共産党は国民党と手を結び、主に華北地方で日本軍に対するゲリラ戦を展開していました。中国共産党八路軍は華北平原に接する山岳地帯に根拠地(こんきょち)を置いていました。そして機を見ては平野部に進出し、日本軍に対する奇襲攻撃や破壊工作を繰り返しました。勢力を強める共産党に対抗するため、開戦から半年後、日本軍は華北に展開する部隊に命令を発します:「共匪はこれを徹底的に掃蕩(そうとう)す」、共産党ゲリラの排除を命じたのです。占領地に入り込もうとする八路軍に対し、徹底した監視体制を築きます。

 防御陣地をかねた堅固な監視塔を華北平原全域に渡って4キロおきに建設しました。建設を指揮していた伊藤利春さんです。監視塔周辺の住民は田畑を接収され、さらに労働力として動員されたといいます。

 (元 伍長 伊藤利春さん(90))「そのときの作戦は大体のトーチかを建てるのと、あのう、道路を作るのが、軍用道路を作るのが大きな目的だったわけです。4キロ、5キロぐらいにトーチかを作りましたね。それも直線に、向こうは広いし、まあ、農民がどういおうと問題ないので、一直線(いっちょくせん)の道路をつけてそこで警備したわけです。」

 しかし、八路軍の掃蕩はきわめて困難な任務でした。ひそかに農村に潜入し、住民にまぎれて活動を行っていたからです。

 (元歩兵 児玉積)「農民と同じような格好をしてますからね、それだからわかりません、逃げてもね」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「八路軍というのはね、神出鬼没、来ているのは便衣でしょう、追いかけると逃げるわよ、一般の住民と一緒にやっているでしょう、これにはもう参りましたわ。」

 八路軍は潜入した集落で、住民を味方につけるためのさまざまな宣伝工作を行っていました。農民たちとともに農作業を行い、税金を軽減することを約束しました。それによって、表向きは日本軍に従っていた住民もひそかに民兵として八路軍に参加していました。

 (元歩兵 石川 行雄さん(92))「日本軍が(集落へ)行ったら、日本軍の専用の村長が出てくるし、八路軍が来たら、八路軍専用の村長が出てきて話をして、それで集落がうまいこと持っていたわけですなあ。」

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「住民の子供はみんな八路軍に取られていたわけ、人付き合いはいいけど、腹の中は見せらんだけ、うん、みせらんだけどね、だけど、「裏で何を考えているのかな」ということは、常に思っていましたな、」

 日本側の分析では開戦の半年後、共産党を支持して八路軍の民兵となった占領地域の住民は30万人に上りました。急速に増える住民を装った兵士に、日本軍は翻弄されていきます。民兵を動員した八路軍の奇襲が続発したのです。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「日本軍が大部隊で行きますと、逃げちゃって、そして、小さな部隊を残すと、襲撃。八路軍のゲリラ戦法、これにはもうてこずりました。だから、小さな部隊の犠牲者は多くなりました。」

 特に、小人数の警備部隊が八路軍の標的になりました。来海忠満さんが所属していた百名の部隊も2000名の八路軍の襲撃を受けました。

(元歩兵 来海 忠満さん(93))「もうすでに、敵はわれわれを包囲し取ったです。山ですから、山の陰から様子を見てわれわれを囲んだ。そうしたらもう雨とあられと撃ってきましたな。いやあ、今日はだめだ。そのときに、われわれは軽機(関銃)という兵器が三丁と、擲弾筒といって手榴弾をポーンとする一つ、おもちゃみたいな砲ですわな、擲弾筒、それが二つあった。それから、山砲が一門配備されましたけど、山砲もどんどん打ちますけど、敵はいい具合によけますな。そのときに、一個小隊で半分は戦死しましたな。私も負傷したし、満足なものは一人もいなかったな。」

 当時連隊副官だった木村喜義さんはゲリラ戦に対抗するために、奔走していました。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「この100年の人生で、あのときぐらい、本当に寝食(しんしょく)を忘れ活動したことは、私はないと思います。」

 取り組んでいたのは囚籠(しゅうろう)作戦です。遮断壕と呼ばれる深い溝を広範囲に建設し、八路軍の移動を妨害しようとしたのです。

 (木村喜義)「(遮断壕の)幅は4メートル、中国のはしごの幅はいっぱいいっぱい、深さは3メートル、これは陣形を作っても上がらないということを想定して、毎日、沿線の住民をまあ、2千人から3千人らしい(動員して)やりました。」

 監視塔の一つ一つを結ぶように掘り進められた遮断壕、東西南北それぞれ500メートルに及ぶ華北平原の全域に深さ3メートルの溝が蜘蛛の巣のように張り巡らされた。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「なかなか大変ですからね、それは「第2の長城」だと、万里の長城に次ぐものだというぐらいな意気こんでやるということでほったんですけどね、」

 昭和15年8月、八路軍は百団大戦と呼ばれる反撃を行います。中国側はこの戦いで、日本軍に2万を超える兵力の損失を与えたと発表しました。一方、日本軍もこれに対抗して、大規模な掃討作戦を繰り返します。以後、華北の治安戦は激化(げっか)の一途をたどりました。四年間の軍隊生活のほとんどを監視塔の警備ですごしていた来海忠満(きまちただみち)さんです。戦友は八路軍との戦いの中で、一人、また一人と戦死していきました。

 (来海忠満)「なーに、こいつー という、戦友が(八路軍に)やられていくんです、話して、出かけて戦友が、帰るときにね、無言で帰るんです。死体を収容して帰るだけ。「今度こそはやっつけてやる」という気持ちはあるけどね、」

 (元歩兵 門脇 志郎さん(94))「いい感情は持っていませんわ、八路軍に対してはね、戦友は殺されたんですから、いい感情を持つわけがありませんわ。」

 犠牲者が増え続ける中、日本軍は山岳地帯にあった八路軍の本拠地を叩こうとします。数万の兵力を動員して行われた討伐(とうばつ)作戦、しかし、諜報(ちょうほう)能力に勝る八路軍の村々(むらむら)では、住民の姿まで消え失せ(うせ)ていました。日本軍は無人と化し(かし)た集落で、食料を調達したことすらできませんでした。

 (元歩兵 山本実さん(95))「戦闘でよく(無人の集落に)入って中国人の民家で泊まるんですがね、何もない、食うものといったら、稗(ひえ)とか、粟(あわ)とかね、唐黍(とうきび)とか、あんなのをするとかね、何とかしてね、だから、日本軍が入ってきたら、豚や鶏や、向こうが珍重(ちんちょう)にしているものを、えしゃくなく殺して食うでしょう、われわれは、そういうようにするものだから、中国人の、まあ、あのう、向こうの人民は、日本軍がそろそろきたなと退い(しりぞい)てしまう、ものは食べるものなら、みんなも、大事なものを持っていくからね、」

 (元 機関銃中隊 中隊長 平尾克己さん(91))「敵のところに入ったときは、多少、食糧を取ったり、あるいは根拠になる、邪魔になる家は焼いたりと、ということは、これしていると思います。

 敵と戦争をするときにね、遮蔽物(しゃへいぶつ)があると攻撃もできん、こっちも隠れたるものもあるし、攻撃するときに、その家の二階が邪魔になるとか、木が邪魔になるとか、いうようなときには、やむを得ず一部ね、焼いたりきったりするということはあったですね。これは仕方がないです。」

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「(集落に)入ったときにはもう徹底的に破壊しちゃうんですよ、日本軍もこんなことしてもいいのかなと思う。とにかく住民が住めないように、八路軍が住めないように全部破壊して帰ってるんですよ。山の(そうとう)作戦も全部打ち壊し、」

 山岳地帯に本拠地を置く八路軍は日本軍の支配下にあった平野部の村々でもひそかに勢力を広げていました。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「トーチカの隣の村から襲撃を食いましたね。向こう3人来たうちの一人は即死でした。それはものの5分も10分もないぐらいでね。そんなときはもう向こうの住民にね、腹が立ちましてね、一人犠牲が出ているから。「その村を焼き払ってしまえ」という意見も出て、情報担当のあれが焼いたことがあるんですけどね、」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫さん(91))「まあ、そこでやられたとか言う場合には、報復的にやる場合があるわけ、バスが襲撃されたとなって(襲撃を受けた)集落へ行ったら、やられた何が言って、やっぱり火をつけるときもあるんでしょ、家を焼くときもな、

 戦争になったら、普通の常識では考えられないことがあるということです。そのときの感情でね、もう、すると、やっぱり、中国でも悪いことをしたことがあるかもわからん、けれども、それはそれなりの理由があるわけです。」

 (元歩兵 山本実さん(95))「あの時、スパイか、本人はどうか知らないけど、(部隊長がスパイの)首を切ってね、村の入り口へおいておく、ずっと、向こうに日本軍が残酷だったか、恐れるか。向こうの農民をね、なめるなというか、そういうこと」



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