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主题:二战日军步兵战术 (一) -- a618

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家园 那就看日本人自己的描述吧

协约不在位,大概没人会关心他的战绩。

个人自己去判断吧。历史本来也是过去的东西。真的怎么回事,只有协约自己和他的参谋们清楚吧。

还是看看日本人自己的描述吧。四个联队被包围。不止一个旅团吧。

留守第六師團(熊本)を母胎に編成された 第百六師團は 師團旅團各聯隊ともに 100 を冠する命名で、下級將校、兵員の大部分は豫備後備役の 現職教員、警官、鐵道員、商人等々、市井人からの緊急召集である。 昭13/05/15編成發令、05/27動員完了、06/04門司港出航、06/06上海上陸。 なんとも慌ただしい出動である。

各地で小戰闘を交へながら長江沿に遡行、暫く近辺の警備任務に就き 炎熱の八月 第十一軍隷下 武漢三鎭攻略戰に参戰。 

戰史叢書<89>に依ると 戰闘開始直後の8月9日 迄の上級將校の死傷者は次の通り(P-133);

113i 聯隊長 田中聖道大佐 130806 戰死

113i 第二大隊長 田尻繁雄少佐 130730 戰死

145i 聯隊長 市川洋造中佐 130809 負傷

145i 聯隊副官 本山武雄少佐 130809 負傷

145i 第一大隊長 萩尾佐藏少佐 130809 負傷

145i 第二大隊長 福島橘馬少佐 130709 戰死

145i 第三大隊長 内海暢生少佐 130809 戰死

147i 第三大隊長 谷 實少佐 130727 重傷

各聯隊の中小隊長は 約半数が死傷 とある。

まさに ファルケンハウゼン中將の指示通り、「將校指揮官」が集中的に狙い撃ちされたものだと考へられる。

翌年、ノモンハンでも 蘇蒙軍は 盛んに狙撃兵を繰り出し、將校指揮官を狙い撃ちしてゐる。

斯かる戰術手段を体質的に嫌う帝國陸軍は 「狙撃銃」もなく 有効な手だてを持たなかった。

十月、九江から徳安へ。 途中 雷鳴鼓劉なる寒村に優勢な國民政府軍に師團四個聯隊が包囲されて孤立。 マラリヤコレラ、飢餓、彈薬缺乏の中補給は僅かに空中からの医薬品投下のみ。 あわや「師團全滅」寸前に救援に差し向けられた現役師團の第二十七師團、第十七師團に 辛うじて救出される。

しかし 死屍累々、あまりの悲惨さに第十一軍司令部は救援部隊に対し「兵員ハ戰塲内ニ進ムルコトナク、志氣上悪影響ヲ蒙ラシメザルコトニ関シ、特ニ御配慮アリ度」と電令して惨状現塲への立ち入りをさせなかった程であると謂はれる。

悲運悲劇の第百六師團は 第百一師團同様、内地歸還の後 解隊。 復活編成されることなく、師團番號は永久缺番となる。

(初掲 2006/11/03 菊香ル佳日 明治節。)

追 記;

http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/p-div.html

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